•情報セキュリティや内部監査の研修をやっているといろいろな場面でこんな会話を聞くことになります。
•「情報セキュリティを考える際には、性善説ではだめだ、人には悪意があるかもしれないと疑わなければならない」
•私も「人を無条件に信頼して、なにも確認せず、何も監視・点検せずに物事を任せてはいけない」とは思いますが、それは「性悪説」を採っているからではありません。
•私の知る「性善説」「性悪説」は共に「人は放っておくと善を保てないので働きかけが必要」であるとしています。性善説と性悪説の違いは、それに対抗する力を人の中に求めるか、外から与えるかだと認識しています。
•性善説は環境を整え人の善性が育つようにすることを目指し、性悪説は師と規範による教化と礼義(制度)によって導くべしとしている点が異なっているというのが私の見解です。
•マネジメントシステムは、「各人の行動のあるべき方向性を示し、業務の実施方法を教育する」また、「業務環境を整え不適合を起こしにくい状況を作り出す」ものです。性善説、性悪説双方の考え方を必要とするものだと考えます。
※以下、孟子・荀子の著書の原文引用をしています。原文の中にセミコロンや疑問符などが入っているのは、参照先(Claudeが探してきてくれました)の校訂者による読者へのガイド記号(標点符号)です。「,」が行の中央に表示されるのは、台湾式の組版規則によるものです。
参照先:中國哲學書電子化計劃(ctext.org)/維基文庫(zh.wikisource.org)
性善説解釈の根拠
•孟子は「人の性は善だから信じて任せておけば正しいことをする」というようなことは言っていません。
•孟子の論は例示によって示されています。その例示の中には「人は本来善なる性質を持っているが、環境によって不善をなしてしまう」とするものがあります。
•例1:
今夫水,搏而躍之,可使過顙;激而行之,可使在山。是豈水之性哉?其勢則然也。人之可使為不善,其性亦猶是也。
【要約】水をたたけば高くはねる。せき止めて勢いをつければ、山を登らせることもできる。それは水の本性ではなく、外からの勢いがそうさせるのだ。(本来善性を持っているはずの)人についても外からの勢いで不善をさせることができてしまう。
『孟子』告子章句上・第二章より
※同じ章の前半で孟子は「人性之善也,猶水之就下也。人無有不善,水無有不下。(人の性が善であるのは水が低い方へ流れるのと同じで、善でない人はなく、下へ流れない水はない)」と述べています。放っておけば善へ向かうのが本来で、不善は外からの勢いによる、という位置づけです。
•例2:
•富歲,子弟多賴;凶歲,子弟多暴,非天之降才爾殊也,其所以陷溺其心者然也。
【要約】豊作の年には若者に善良な者が多く、凶作の年には乱暴者が多い。天が与えた素質がそれほど違うわけではない。その心を陥れ溺れさせるものが、そうさせているのだ。
『孟子』告子章句上・第七章より
※「賴」は趙岐注・朱熹集注に従い「善」の意にとりました。近代の注釈には「懶(怠惰)」と読むものもあります。
•次の例示は、だから、善い行いができる環境を整えなければならないと説いています。
•孟子曰:「牛山之木嘗美矣,以其郊於大國也,斧斤伐之,可以為美乎?是其日夜之所息,雨露之所潤,非無萌櫱之生焉,牛羊又從而牧之,是以若彼濯濯也。人見其濯濯也,以為未嘗有材焉,此豈山之性也哉?雖存乎人者,豈無仁義之心哉?其所以放其良心者,亦猶斧斤之於木也,旦旦而伐之,可以為美乎?〔中略〕故苟得其養,無物不長;苟失其養,無物不消。」
•【要約】山が、木を刈られ、牛や羊の放牧が続けばはげ山になるが、それは山の本性ではないはず。同じように人も毎日毎日刈られ続けていれば本来持っている良心を手放してしまうかもしれない。良心は育てなければ消えてしまうものだ。
•『孟子』告子章句上・第八章より
•なお、孟子のいう「導く」は外から教え込むことではありません。為政者が条件を整えること、そして本人が自ら取り戻すこと(「学問之道無他,求其放心而已矣=学問の道は他でもない、手放した心を取り戻すこと、ただそれだけである」告子章句上・第十一章)を指しています。
性悪説解釈の根拠
•荀子は、性悪説を主張するにあたり、基本の主張を明確にしてくれています。
「人の性は悪であり、その善なるものは人の手が加わった結果である。」
「人の手が加わった結果、善なる行いをする」、つまり「教育や制度が必要だ」ということです。
•人之性惡,其善者偽也。今人之性,生而有好利焉,順是,故爭奪生而辭讓亡焉;生而有疾惡焉,順是,故殘賊生而忠信亡焉;生而有耳目之欲,有好聲色焉,順是,故淫亂生而禮義文理亡焉。然則從人之性,順人之情,必出於爭奪,合於犯分亂理而歸於暴。故必將有師法之化,禮義之道,然後出於辭讓,合於文理,而歸於治。用此觀之,然則人之性惡明矣,其善者偽也。
•【要約】人の性は悪であり、その善なるものは人の手が加わった結果である。今、人は利を好むから奪い合う、ねたむから傷つけ合う、目や耳の快楽を求めるから乱れが生じる。人の性にしたがうと乱暴狼藉につながる。だから、師と規範によって教化し、礼義を身につけることで譲り合いが生じ、秩序が生まれ、治まった状態に行き着くのだ。
『荀子』性悪篇第二十三より
※「偽」は虚偽ではなく人為の意です。荀子自身が「可學而能,可事而成之在人者,謂之偽(学べば身につき、努めれば成るもので人の側にあるもの、これを偽という)」と定義しています。「その善なるものは偽なり」は「善は人の手で作られる」という主張です。
•性悪説の「悪」とは何か
•「本性が悪だと言うのなら、やはり人を疑えということではないか」と問われることがあります。しかし荀子自身が「善」「悪」を次のように定義しています。
•凡古今天下之所謂善者,正理平治也;所謂惡者,偏險悖亂也:是善惡之分也矣。
•【要約】およそ古今天下でいう善とは、道理が正しく秩序が治まっていることであり、悪とは、偏り危うく道理に背いて乱れていることである。これが善悪の分かれ目である。(『荀子』性悪篇第二十三)
•荀子の「悪」は、個人の心根が邪悪だという人物評価ではなく、放置した結果として生じる無秩序を指しています。はやりの言葉で言えば「世紀末的な状況」(もうはやりは終わってますかね?)。
•また、荀子のいう手当ては教育だけではありません。「師法之化(師と規範による教化)」と「禮義之道(礼義による導き)」の二つで、後者は制度にあたります。
•禮起於何也?曰:人生而有欲,欲而不得,則不能無求。求而無度量分界,則不能不爭;爭則亂,亂則窮。先王惡其亂也,故制禮義以分之,以養人之欲,給人之求。
•【要約】礼はどこから起こったか。人は生まれつき欲をもつ。得られなければ求めずにいられない。求めるのに限度と区分がなければ争わずにいられない。争えば乱れ、乱れれば行き詰まる。先王はその乱れを憎み、礼義を定めてこれを配分し、それによって人の欲を養い、人の求めに応じたのである。(『荀子』礼論篇第十九)
•【要約】礼はどこから起こったか。人は生まれつき欲をもつ。得られなければ求めずにいられない。求めるのに限度と区分がなければ争わずにいられない。争えば乱れ、乱れれば行き詰まる。先王はその乱れを憎み、礼義を定めてこれを配分し、それによって人の欲を養い、人の求めに応じたのである。(『荀子』礼論篇第十九)
•有限の資源をめぐる要求の衝突を「度量分界(限度と区分)」によって解く、しかも目的は欲の抑圧ではなく充足である——権限設計や職務分掌の考え方そのものです。
•まとめ
•性善説・性悪説のどちらも「放っておいてよい」とは言っていません。放置すれば善は保たれない、だから働きかけが要る、という点で一致しています。違いは、その力を人の中に育てるか、外から与えるかです。
•そして、どちらも「規程さえ整えれば自動的に回る」とは考えていません。
•徒善不足以為政,徒法不能以自行。(善意だけでは政治はできず、法だけでは自ら行われることはない) 『孟子』離婁章句上・第一章
•有治人,無治法。 〔中略〕法者,治之端也;君子者,法之原也。(治める人はいるが、ひとりでに治める法はない。 〔中略〕法は治の端緒であり、君子は法の根源である) 『荀子』君道篇第十二
•マネジメントシステムは、「各人の行動のあるべき方向性を示し、業務の実施方法を教育する」また、「業務環境を整え不適合を起こしにくい状況を作り出す」。性善説、性悪説双方を必要とするものだと考えます。そして、それを運用する人がいてはじめて回るという点も、両説の一致するところです。
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